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「そして…?」

I. プレリュード(前奏)
世界の苦悩、叫び、嘆き、ざわめき、祈りの喚起

「世界のあらゆる場所から、叫び、嘆き、ざわめき、呼びかけ、祈り、そして歌が湧き上がってくる。それらは、自らに目覚めようとする生命そのものの声である。」

II. インタールード(間奏)
日本の伝統音楽に着想を得たモーダルな主題と、3つの短い変奏

  • 第1変奏:箏(こと)の響きに着想を得て

  • 第2・第3変奏:仏教の宗教儀式の記憶(管楽器と打楽器による)

III. ポストリュード(後奏)
中国地方(広島を含む)の子守唄の和声化

「母が子をあやす
死が現れる
永遠に眠れ」

1978年クリスマスの日に完成
作曲:ルイ・イルブランド

            Louis Hiltbrand

​サマースクール

サマースクールに参加する皆様は、大自然の中で、サバイバルの力を培っていきます。宇宙は、この自然の中に生きる私達に、彼らと同様な飽くなき創造力を、そして宇宙の自然体の中にどっぷりつかって、心の内なる声に耳を傾けると、生き生きと生きるエネルギーを与えてくれます。まず、自分の自然体を取り戻す一つの方法は、フランスに来て、フランス人と、そしてチェルノブイリの子どもと出会ってみて、それぞれの違う文化に触れてみると沢山の疑問が生まれてきます。

客観的に日本を自分自身を見直す絶好のチャンス。

日本では、目の前にある事に集中して上手に物を作ったり、取り計らう達人が多く、与えられたことを誠実に完璧に達成する素晴らしい国民だと思います。

私のフランス人の友達も、そんな日本が大好きで、日本に来た事のある人はもちろん、日本の文化に憧れている友人が沢山います。

でも時間に追われ、忙しくて、ちょっと目の前の事だけになっていませんか?

少し距離を持って、違った視野に立って、人の幸せってなんだろう、平和って何だろうと考えてみませんか?

気持ちの良い人間関係を作る事はとても大切ですが、その為に問題を起こすことを嫌って、隣の人と話し合う事を避けて、黙っていませんか?

フランス人のそれぞれ個人の主張は驚くべき代物です。少し見習ってみませんか?

話す事によってこそ、相手の望みを理解し、また、より自分の望みも明確になってきます。

そして、あるに違いない、違いを知って、認め合ってこそ、平和は出来ていくのではないでしょうか?

ありのままの自分、自然体を、お互いに認め合って、一緒に生きて行く。

平和は、与えられる物だと他者に依存し、誰も責任を持たなかったら、争いは絶えないのではありませんか?

こうして平和を皆で一緒に作って行けたら素晴らしいと思いませんか?

それをよーく心に聞いてみると、人と違う、自分と違うことにぶつかって、慌ててる心を一寸とどめて、疑問を直視するその時に、視野が開け、多様な文化、慣習の中に潜む、単なる習慣の違いも見えて来る。洗脳されていただけかもしれない、今まで当たり前だと思っていたことが、ちっとも当たり前ではなく、変わらないと思っていた事は変えられると気付く。その時に、自分自身の、生まれながらに備わっている、天性の可能性が解放され、エネルギーが出てくる。

そう。

自然体。

 

とってもシンプルな事。

天真爛漫な好奇心を放って、様々な違いに気づく。

その時に、人と同じでなくていい自分を、お互いに尊重し合い、それぞれの手作りの独自な人生を創造する時にこそ、多様な他者と、ありのままの自分自身でいられる幸せを、心から、共に味わうことが出来、本当の意味での友情が、そこから生まれてくるのだと思う。

それこそが、自然が私達に与えてくれたプレゼント。

愛。

 

この自然体で平和が築かれるようにとの願いから、子供達とピアノの連弾やソロのコンサートもしています。

 

その他にサマースクールで大切にしていることは、菜食、玄米を中心にしたよい食事をとる事。

チェルノブイリの事故の後から、放射能の排泄の助けになる食事が、研究されました。これも、私たちの体が持っている治癒力、免疫力を高める為の物です。有機農法のお野菜を取る事。自然は私たちに、自分で治療できる力も、与えてくれたのです。その力を高めましょう。

こうして、1年に3週間、汚染地域から離れて、良い空気と、良い食事を摂る事によって、子供は、40パーセントもの放射能を、体外に排泄出来、免疫力を高め、健康を維持することが出来る。これは、30数年経ったチェルノブイリ事故からの経験知。

情報の大

そして、今私たちの住んでいる、この高度な文明社会の中で、今日と同じ、安心安全な日々が、明日も明後日も続いていくと思いがちですが、それは幻想にすぎず、あっという間に崩れ去ってしまうという事を、私達は知ってしまいました。これは、福島の方たちが一番身をもって体験された事でしょう。

いざは、私たちを待ってはくれません。

その時に、私たちは何が出来るのでしょう?

 

津波の被害のあった釜石で、高台に逃げる防災訓練を十分に受けていた中学生達が、600人もの、小学生、幼児、お年よりまで助けた英断も、東北大震災の時にありましたね。知識があると行動を起こす力が出て来る。どうしたら良いかが判らない時、慌てるだけになってしまいますね。

情報は私たちの意識を変えることが出来ます。知ることの大切さ

 

そして、いざの時に役に立つ、どんな状況でも生き抜いていける力を養うこと。

この、いざと言う時に私たちの体は、動物のように、本能的に、危険を察知出来るでしょうか?

本能はどこかに隠れているのか、失くしてしまったのでしょうか?

体は感知していても、体の反応を聞く習慣を、忘れているのでしょうか?

それに、まず第一、本能的に行動することを、良いとは思っていないのでは?

自然が、私たちを守るために備えてくれているに違いない本能を、蔑ろにしていませんか?

こうした、サバイバルの力を、ピアノの木サマースクールでは、とても大切に考えています。

 

来年のサマースクールでは7月28日から、パリで、日本から来てくださる整体師の先生に、体の不思議な力を、この本能の回復を引き出す方法を、教えていただく事から始まります。その後セヴェンヌ地方の大自然の中をキャンプしながら回って8月20日には日本へ帰国と言う予定です。参加ご希望の方はご準備下さい。

 

 

是非沢山のお子さんに、大人の皆様にも参加していただきたいと思います。

皆で元気に生きましょう。

 

 

『自然、心、体、を聞く』 それが、ピアノの木サマースクールの願いです。

 

福島原発事故の現在 ― 生きつづける証言

広島、長崎の原爆被害に続き、福島の原発事故もまた、多くの人々の生活と心に深い傷を残しました。これらの悲劇は決して過去のものではなく、今なお続く人間の苦しみと向き合うべき現実です。私たちは、この教訓を胸に、未来に向けて人類愛と共感の精神を持ち続けることが求められています。

2011年の原発事故において、福島県いわき市は放射線量が高かったにもかかわらず、避難指示区域には指定されませんでした。
そのため、避難を望んだ多くのご家族は「自主避難」という形で、国からの支援も十分に得られないまま、苦渋の決断を迫られました。

ここにご紹介するのは、いわき市から東京へと避難を続けてこられたご家族の、14年にわたる歩みの証言です。
このご家族の二人の息子さんは、私たちのNPO「ピアノの木」の夏のキャンプに参加し、元気いっぱいに走り回っていた子どもたちです。
ご両親は、原発事故の被害に対し国を相手に訴訟を起こし、さらには、避難打ち切りに苦しむ方々の代表として、心を込めた活動を続けてこられました。

このたび、鴨下祐也さんの東京都による避難者追出し訴訟に対する意見陳述と、奥様の鴨下美和さんの率直な言葉による証言を、ここに掲載させていただきます。
その軌跡を読んでいただき、こんなことが二度と繰り返されない社会を、皆さまと共に築いていけることを、心より願っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鴨下美和さんから

1 はじめに
20 2 2年1 1月、私はふるさとの福島県いわき市平赤井南茨にあるシオンの丘というクリスチャン共同墓地にいました。市内を見渡せる高い山の中腹。征葉した木々に囲まれた墓地の中央には、大きな白い石の十字架。手前には花を終えた吾亦紅(ワレモコウ)。茂みには赤い山帰来(サンキライ)の実。やっと訪れることができだ壊かしい風景に、自然と涙が溢れました。

しかしその足元の土には、今でも数千Bq/kgの放射性物質が含まれているのです。2011年の福島第一原発事故当は、その数十倍から数百倍の汚染があったにも関わらず、私たちの住んでいた福島県いわき市には、一度も避難指示が出されませんでした。私は、被曝を逃れるために子どもたちを連れて避難した、いわゆる自主避難者です。家があった福島県いわき市郷ヶ丘は、爆発した原発から南に4 0km(添付資料1ー地図(原告の居住地))。事故当時、2 0 0 2年に生まれた男は8歳、2 0 0 7年に生まれた次男は3歳。ひとときもじっとしていられないような、やんちゃ盛りの子どもたちに、泥埃や雨を避けるような生活ができるわけもありません。彼らを放射線被曝から守るためには、無理をしてでも、避難するしかなかったのです。


2 放射性物質を扱う施設で実験を行う
私と夫の鴨下祐也は、東京理科大学基礎工学部生物工学科の研究室で出会いました。私が大学4年生だった1 9 9 2年のことで、夫は大学院生でした。その研究室では、植物の分子遺伝学を研究していました。自らの体細胞のDNAに突然変異を起こさせる特殊な遺伝子配列(易変因子)を探査したり、そのメカニズムを解明したりするような研究が中心でした。当時、遺伝子を扱う実験では、遺伝子の配列を確認するためDNAを標識する必要があり、いわばその染料として放射性物質を使用することもありました。その際は、研究棟とは別棟の放射線管理区域に指定された建物の中で、細心の注意を払って実験を行いました。今でいうガラスバッジを付け、自分が被曝しないための操作はもちろん、間違っても管理区域の外へ放射性物質を持ち出さないために、厳しく管理された中で実験を行っていました。実験後にはガイガーカウンターで、実験台や床が汚染していないか、くまなく調べ、管理棟から外へ出る際には、実験で使った白衣やスリッパは念のため着替え、ハンドフットモニターで手足が汚染していないかも確認し、汚染がある人は外へ出られない仕組みになっていました。実験で用いた薬剤の残りやゴミなどは、1 0 0 Bq/kg以上のものは全て専用の容器に入れて厳重に管理し、流しの排水なども下水には流さず一旦貯水し、十分に放射能が減衰するまできちんと管理されていました。あの事故が起こるまで、研究室はもちろん、病院や、原発の敷地内であっても、放射性物質はそのように厳密に管理されてきました。もちろん現在でも、この原則は放射性物質を扱う施設では厳密に守られています。しかしあの事故によって、東日本の広い範囲が、そのような放射線管理区域に指定された施設の中よりも、酷い汚染状況になりました。かつて私が実験を行っていた千葉県内にある東京理科大学の放射線管理施設でも、2 0 1 1年の春には、管理棟から外へ出る扉を開くと、普段は鳴らない放射能汚染を知らせる警告音が鳴り響き、扉を閉めると警告音が鳴り止む、という恐ろしい状況になりました。私たち夫婦の学生・大学院生時代の恩師の教授から教えていただいた話ですが、2 0 1 1年当時の大学生や大学院生たちの間では大変な話題になっていて、他の人からも同様の話を聞きました。実験棟の中の空気よりも、外の風の方が、遥かに放射能汚染していたのです。このように、学生の頃から放射性物質の危険性を学び、見えないそれを厳重に管理してきた私たち夫婦にとって、自分の家や、子どもたちが遊ぶ場所に、大量の放射性物質が降り注ぎ、子どもたちが素手で触れられるようになってしまったこと、呼吸するたびに体内に入ってくる状況になったこと、農地や河川に降り注いだこと、また風雨で移動し、風が吹けば土埃と共に再び空中に舞い上がる状態になってしまったことは、心が壊れる程の恐怖でした。


3 夫は牛乳を流しに捨てた
2011年の3月17日頃のことです。当時、私たち家族は東京に避難していましたが、東京でも物流の混乱から食料が手に入りにくく、私はその日、長いこと列に並んでやっとlLの牛乳を買いました。じっとしていられない3歳の男の子の手を握ったまま列に並ぶのは容易ではありませんでしたが、原発事故後、避難による混乱と移動が続き、子どもたちにあまり栄養のあるものを食べさせてやれていないことが、気になっていたからです。やっとのことで牛乳を手に入れ、宝物のようにアパートに持ち帰ると、夫がそれを見て、何とも言えない苦々しい表情で 『なんで今、牛乳なんだよ』、と言ったのです。そして、牛乳のパックを手に取ると、開封し、全てを流しに棄てました。結婚以来、一度も食べ物を捨てたことが無かった夫が、傷んでもいない牛乳を捨てている。ありえないこと、信じられない光景でした。私は、くるくると渦を巻きながら流しに吸い込まれていく白い牛乳を見ながら、世界が変わっていくと感じました。夫は、チェルノブイリ原発事故でも牛乳が汚染したこと、草を餌にする乳牛や葉物野菜は、もっとも影響を受けやすいのだと教えてくれました。そして、これからは食品を買う際は、産地に気を付ける必要があること、米や乾物は今のうちに買っておくべきこと、海産物はまず小魚が、そして沿岸の魚が汚染しやすいことなど、順に話してくれました。また、牛乳など多くの食品は、品質の安定のために、元来複数の産地のものを混ぜて作られているので、汚染したものを避けにくいのだ、ということも。健康のため、栄養があるからと、進んで子どもたちに与えていた牛乳やほうれん草、小魚などが、危険なものになってしまったことは、私にとって世界がひっくり返ってしまったと感じるくらいの衝撃でした。やがて、飯舘村のほうれん草や、東京都の水道の汚染が相次いで報道されるようになり、この時に夫が話してくれたことが、現実だったことが突き付けられました。一家の趣味だったキノコ狩りや山菜狩りも、もう出来ないということ、美しかった福島の山々が、見た目はそのままに静かに汚染されてしてしまったこと、健康のために推進される、たい肥や腐葉土を使った有機農法こそが汚染を受けやすいことなどを知り、深くショックを受けました。私はこの日の出来事を今でも忘れることができません。白く渦を巻きながら、くるくると流しに吸い込まれていった新鮮な牛乳。草にも牛も酪農家にも罪は無いのに、胸が張り裂けそうな思いで牛乳を棄てたあの日から、私の世界は色を失いました。東日本の広い範囲で、無数の良いものが危険な毒物に変わってしまった原発事故。その放射能汚染は、私たちが生きているうちには消えません。本当の意味で、あの事故を償うことなど、人間には出来ないのだと思っています。


4 過酷な避難生活


(1) 避難の経過
避難生活は困難を極めました。3月1 2日の早朝,私たち家族は,まず、私の横浜の実家に向けて避難を開始しまた。私は,夜も明けぬうちに子どもたちを起こし,たくさんあるお気に入りのおもちゃの中から3つだけ用意するように言いました。我が家の自家用車には, 1日分の着替えと飲食物が詰め込まれていて,子どもたちの好きなおもちゃ全てを持って行かせることはできなかったのです。当時,8歳と3歳というやんちゃ盛りだった子どもたちが,車の中ではおもちゃを抱え,じっと静かにしていました。子どもたちなりに強い不安を感じていたのだと思います。横浜に2日ほど滞在した後,私たちは,夫の実家の助けを借りて、3月1 5日に東京・小金井のアパートに引っ越しました。しかし、出費がかさみ、その後、都内の避難所に入れることが分かったため、4月の末にやっと避難所に入りました。ところが6月末にその避難所が閉鎖になったので、今度は都内の宿泊施設に滞在し、7月2 0日には都内の古い官舎の避難住宅へ移転しました。
 

(2) 夫の苦しみ
賠償金の出ない私たちには、避難の継続のためのお金が必要なので、福島県いわき市にある国立福島工業高等専門学校の准教授だった夫は、4月には福島へ戻って業務を再開しました。いわきへ戻る日、夫は 『もしも僕に何か起きても、決して(いわきに)戻ってこないでほしい。むしろ何か起きたら、迷わず子どもたちを連れて、もっと西に逃げてほしい』と言い残して立ちました。この日は私たち夫婦にとって、新たな覚悟の日となりました。
当時、いわきに戻った夫が電話越しに、シンチレーションデイテクターの音を聞かせてくれたことがあります。チチチチという検出音が、やがてチーーーーという鳴りっぱなしの甲高い音に変わります。生活空間にあってはならないものがそこにある。その危険を知る夫にとって、そこで働くことがどれだけのストレスであったか、想像に余りあります。職場では、地震で崩れたり埃だらけになった教室や研究室の掃除や片付け、毎日、使い捨ての
雑巾で机や椅子、床などを拭く除染作業、校舎の屋上に設けていた水耕栽培の野菜のプラントを全て廃棄した上での除染作業などに追われていたそうです。大げさに聞こえるかもしれませんが、毎日机などを拭いても、拭き上げた後の雑巾をベクレルモニターで測定すると明らかに高い数値が出ていたのですから、生徒を守るべき立場にある教職にあった夫としては除染作業をやめることはできませんでした。また、放射能汚染を心配する同僚の中には自主的に異動を申し出て福島を離れたり、退職したりして職場を去って行く人もいました。しかし、教員数が減ってもすぐに新しい教員が補充されるわけでもないため、事故後の職場では負担する雑務も増え、夫は激務が続いていました。それでも夫は週末には、車で2 5 0kmの道のりを飛ばして、私たちに会いに来てくれました。前述したように、事故後、激務が続いていましたので、体力的にも東京との往復は辛かったはずです。それでも家族に会いたい一心で、必死に福島と東京を往復していたのだと思います。当時は、会うたびに夫が痩せていくのがわかり、その背中に幼い息子達がよじ登るのも、痛々しく感じました。
2 0 1 2年の春、夫が当時のいわきでの暮らしを語ってくれたことがあります。水や野菜の汚染が気になって、食事が全く楽しめなくなったこと。誰も居なくなった広い家や布団が冷え切っていること。3月1 1日のまま、時が止まったようにリビングには、電車のおもちゃが散らばったままになっていること。それで遊んでいた息子達の姿が目に浮かび、つらくて片付けられなかったこと。届けてあげようと、念のためおもちゃを拭いた不織布から放射性セシウムが検出され、子どもに触らせたくないと思ったこと。そしてどんなにきれいに拭いても、それを届けるべき避難所は、おもちゃを広げられる程広くなかったので、結局あきらめるしかなかったこと。夫がそんなことを話しながら、『あのおもちゃを届けられる頃には、もう電車なんか卒業しちゃってるんじゃないかな。僕も同じ。一緒に暮らせるようになる頃には、もう僕は必要とされなくなっているかもしれない』と、寂しく笑った顔を今でも覚えています。何故、男性は悲しい時に笑うのでしょう。原発事故以来、涙ながらに被害を語る女性には沢山出会い、私も一緒に泣いてきました。でも、涙を流す男性は本当にわずかでした。幼い頃から『男は泣くな』と育てられてきた男性たちは、耐えきれない程の苦しみや悲しみを抱えたとき、自虐的に笑いながら話すのだということを、私は原発事故で知りました。事故から1 2年。未だ被害は続き、私たちは元の生活を取り戻せていません。最近見るのは、涙も尽きて、心を閉ざした女性たちや、諦めたように寂しく笑う男性たち。逃げても地獄、残っても地獄。こんな残酷な事故を起こした原発を、私はもう二度と動かして欲しくないのです。

 

(3) 子どもたちの苦しみ
一方、離れて暮らす子どもたちも、辛い思いをしていました。日曜の夜、別れのときになると、4歳になった次男は満面の笑顔で、ジャンプしながら『ばいば~い、ばいば~い』と父を見送ります。しかし、父の車が見えなくなった途端に、その声が裏返り、バイオリンのような泣き声に変わるのです。そして一目散に部屋に駆け戻り、布団にもぐって泣くのでした。幼いながらに、父の帰る先が安全ではないことを感じ取っていた様でした。寂しさだけでなく、父を案じて声を殺して泣く姿に、胸がつぶれる想いでした。この頃の忘れられない出来事があります。ボランティアが避難児童を遠足に連れて行ってくれたのですが、帰るときになって全員に、お土産を買うためにお小遣いが配られました。みんなが一斉に土産物コーナーに走っていく中、4歳の次男だけが回れ右をして、顔を上気させて私のところに走ってきました。そして小さな手の中の5 0 0円玉を嬉しそうに差し出して、『このおかね、おとうさんにあげて』『ね、おかねあるから、もうだいじょうぶ』『おとうさん、おしごとやめて、いっしょにみんなでくらそう』4歳の子が、生まれて初めて手にしたお金で買おうとしたのは、お父さんとの暮らしでした。
私は涙が止まらず、ただ息子を抱きしめて『ごめんね』としか言えませんでした。
一方、8歳だった長男は、避難後、程なくして都内の小学校に転入しました。避難直後でランドセルも筆箱も無い息子を、学校は温かく迎えてくれました。先生も級友たちも優しく、初めての転校は、とても穏やかに始まりました。しかし4月の中旬のある日、その平和は突然崩れました。丁度、東京電力が避難指示区域の避難者に百万円の賠償金の仮払いをする、という報道が流れた直後でした。突然複数の級友から、金を返せと身に覚えのない罪で責められ、どんなに否定しても認めてもらえず、わけもわからぬうちに、息子はいじめの対象にされていきました。図工のエ作には無数の悪口が書きこまれ、休み時間には仲間外れにされ、罵声を浴びました。すれ違いざまに小突かれたり、福島の奴と、からかわれるようにもなりました。授業中も、先生に見えない形で攻撃され、足を鉛筆で刺されたり、足で机を離されたりしました。それらに耐え切れず、悲鳴を上げて教室から飛び出し、階段の陰に隠れたことも複数回あったそうです。やがて、お腹や体が痛くなるようになり、ある朝、ついに玄関でうずくまって学校へ行けなくなりました。恥ずかしいことに、そうなるまで私は息子の異変に全く気づきませんでした。そもそも、息子がいじめられるという発想自体がありませんでしたし、当時は、都内の物流も混乱していて、生活必需品を入手するだけで精一杯の中、4歳の次男を連れて避難先の新生活をひとりで立ち上げなければならず、全く余裕がなかったのです。偶然その頃、都内の避難所に区域外避難者も入れることになったので、私たちは避難所へと転居し、息子を避難所のそばの小学校へと転校させました。しかし、程なく次の学校でもいじめが始まり、原発避難者報道と連動するように、断続的に小学校を卒業するまで、いじめは続きました。『避難者は金を貰っているズルい奴らだから成敗されて当然』、という誤った認識が、級友たちの卑劣ないじめを正当化させていた、と息子は語ります。毎日泣きながら帰ってくる息子には、胸に靴の形のあざができていたり、首に指の形のあざが出来
ていたこともありました。担任の努力で学校でのいじめが沈静化しても、今度は通学路や塾でいじめが起き、便器に履物を入れられたり、弁当を床に撒かれたり、ゴミを入れた飲料を飲めと言われるなど、凄惨ないじめが続きました。当時の息子は、七夕の短冊に『天国へ行きたい』と書いたほど、生きることを苦しく思っていました。私は、何をしても止まないいじめから、せめて息子の命を守りたくて、息子に洗礼を受けることを勧めました。キリスト教が自殺を禁じていたからです。後に息子から、その頃のことを以下の様に言われました。『あれ(自殺したら天国へ行けない)は、意味があったよ(あれが無かったら自殺していたかもしれない)。自殺したら天国へ行けないと思っていたから、階段から突き落とされた時は、このまま落下すれば、相手を告発できるし、自分は天国へ行けると思った。でも、いざとなると反射的に受け身を取ってしまうので、死ねなかったけど』息子は学区から遠く離れた私立中学に進学し、それを期に、避難者であることを隠すようになり、以降いじめは全く起きなくなりました。しかし小学校時代に刻まれたトラウマは根深く、息子は高校生になってから鬱を発症し、大学生になった今もまだ苦しんでいます。私たちは、原発事故さえなければ、避難者と罵られることもなく、家族がバラバラになることもなく、息子達も、いわきの豊かな自然の中で、のびのびと少年時代を満喫できたはずです。それを思うにつけ、原発さえなければ、と、悔し涙が溢れます。


5 区域外避難という困難
福島第一原発から噴出された放射性物質は、県境をはるかに越えて、広く東日本にまき散らされましたが、政府が避難指示を出したのはごく一部の狭い区域に限られました(添付資料2ー福島県地図(避難指示区域)とNPO法人みんなのデータサイトの2 0 2 2年の東日本ベクレル測定マップを重ね合わせたもの)。そのため、避難指示は出なくても生活圏を放射能汚染された人たちは、当然被曝を回避したいと望みました。でも、行く当ても、情報も、お金も無い状態で、自力で避難することは容易ではありませんでした。それでも、せめて被曝に脆弱な子どもだけでも逃がしたい。放射線被曝から守りたい。そんな切実な思いから、多くの親たちが、私たちのように家族がバラバラになる形の避難を決意しました。つまり、避難の費用を捻出するために、生計者が福島に残り、子どもたちとその養育者を、少しでも放射能の少ない場所へと送り出したのです。多くの場合、それは若い母と幼い子どもた
ちでした。夫婦が福島に残って働き、祖父母が孫を速れて避難したケースもあります。逆に祖父母が福島に残り、子や孫を仕送りで支えた世帯もあります。とにかく皆必死で、愛する家族を被曝から守ろうとしたのです。

 

6 誤解と無理解に起因するバッシング
放射能は目に見えません。仮に測定機器があっても、知識と事故前の数値を知らなければ、その危険性はわかりません。国の避難指示が無かったこともあり、いわきは汚染などしていない、全く問題がない、と信じ
ている周囲の人たちの中で、除染や被曝防護を訴え続けた夫は、罵声を浴び、差別を受け、次第に孤立し、頭のおかしい人と、思われるようになっていきました。


7 事件と夫の退職
そんな折にある事件が起こりました。夫は、前述のとおり、国立福島高専の准教授で、高専には学生寮があったため、教官は持ち回りで寮監を務めていましたが、たまたま夫が寮の宿直だった2 0 1 1年の5月に、その事件は起こりました。その日、夫は男子寮の宿直でしたが、女子寮の担当だった先生から、『ひとり、寝ていて、朝
の点呼に起きてこない生徒がいる』、という電話がきたのです。これは尋常ではないと思った夫は、急いでその生徒の部屋に確認に行きました。しかし、夫が到着した時点で、その学生は既に心肺停止の状態でした。夫は急いで救急車を呼び、AED(自動体外式除細動器)を持ってくるように学生に指示を出し、自らは心肺蘇生を行いました。しかし心拍や呼吸は再開せず、運ばれてきたAEDを装着しても、停止したままの心臓に、除細動装置が電気ショックを送ることもありませんでした。やがて救急隊員が到着しましたが、『そのまま続けてください』と言
われたため、夫は心臓マッサージを続けました。しかし結局、その学生の蘇生はできず、そのまま搬送先の病院で死亡が確認されました。前日まで元気に部活動をしていた学生の急逝に、誰もがショックを受けました。結局、事件性が無いため司法解剖も行われず、この学生の死因はわからないままでしたが、夫はチェルノブイリ原発事故の時に、子どもたちの突然死が問題になったことを思い出していました。また当時の夫は、屋外での部活動に被曝の危険があることを会議で訴えていましたので、激しく放射能汚染した土にまみれる部活動が、1 7歳の少女の死を招いたのではないか、と思った様です。もちろん、少女の死や心肺蘇生の体験自体も、大きなストレスだったと思いますが、教官として科学者として、学生たちを被曝から守れなかったことを、何より苦しく感じた様です。
こんな経験も重なって、夫は心身共に壊れていきました。2 0 1 1年の夏のある夜、夫の上司にあたる先生から、私の携帯に電話が入りました。例によって宿直中に、夫が寮の部屋のドアのガラスを素手で割り、両手に数針ずつ縫う怪我をしたというのです。病院に運び、今、縫合が終わったが、このまま1人で家に帰らせても良いだろうか? という相談でした。日ごろから声を荒げることも無い、いつも穏やかな夫が、手でガラスを割るなど考えられない
ことでした。余程のことがあったに違いないと動揺しながら、電話を夫に代わってもらうと、電話口の夫の声は酷く疲れた風ではありましたが、落ち着いており、ただ静かに『大丈夫だから。ごめんね。もう、大丈夫だから』と、言っていました。私は、大丈夫なわけないじゃないか、と思いましたが、自家用車も無い状態で、もう電車も無い時刻に、幼い子供を東京に残したまま自分が福島まで行く方法も思いつかず、結局、いわきでお世話になっていた教会の牧師さんに、病院まで迎えに行ってもらうように電話でお願いしました。牧師は病院に夫を迎えに行った後、家に夫を招き、食事を促し、泊まっていくように勧めてくれたそうです。後に夫に、何故あんなことをしたのか、と聞いたところ、人がいるはずの宿直室が施錠されていて、窓が高く中の様子が見えなかったが、中から人が苦しんでいるような声が聞こえた様に感じたため、早く助けないと中の人が死んでしまうのではないかと思い、必死で窓のガラスを叩いているうちに割ってしまった、と話してくれました。更にこの年の冬にも、もうひとり、寮生が突然亡くなりました。健康で、既往症もなく、直前まで何の異変もなかった子どもたちの突然の死は、夫でなくても、原発事故との関連を考えずにはいられない出来事だったと思います。夫の職場は研究者が多くいましたが、放射線を扱う研究をする人はあまりいませんでした。また、学生たちを被曝から守ろうと、除染や屋外部活動の休止を訴えていた先生たちは、結局その後、次々に転職もしくは退職してしまい、一年後には被曝防護の必要性を訴える人は、夫だけになっていました。そのため、残った教官たちは、『無いものを過剰に怖がる頭の悪い人』であるかの様に夫を扱うようになりました。
この頃から、夫が目に見えて弱っていきました。会うたびに髪が減り、皮膚が年寄りのようになり、やがてろれつがまわらなくなりました。早朝に目が覚めてしまい、あまり睡眠もとれていない様でした。見るに見かねた私は、夫に仕事を辞めて一緒に暮らすことを提案し、事故から2年後に、夫も避難者となりました。

 

8 鼻血と科学
不審な出来事と言えば、2 0 1 1年の頃は特に、避難所や避難住宅では、鼻血を出す子が多くいました。それも、見たことのない程、酷い鼻血です。 8歳の長男も、そのひとりでした。吹くような、吐くような勢いで、鼻血が両鼻から出たり、口からも出る。綿やティッシュでは追い付かず、洗面器やレジ袋で、流れ出る血を受ける子どもたち。それが3 0分経っても治まらない。深夜に、若い母親から、どうやったら娘の鼻血を止められるのかと相談を受けたこともあります。結局、息子は手術で鼻血を止めました。しかし2 0 1 4年に鼻血がニュースで取り沙汰された際には、環境大臣まで出てきて、原発事故と鼻血の関係を否定しました。そればかりか、メディアはまるで魔女狩りの様に、鼻血が出たと言う母親を晒しては、その証言を否定し、まるで精神に問題がある人であるかのように扱
いました。私は、現実にあったことを、それを目で見ていない政府やメディアが頭ごなしに否定し、攻撃することを、非常に恐ろしく感じました。科学は現実に起きていたことを否定できるものではありません。実際に、岡山大・熊本学園大・広島大らのプロジェクトチームによる疫学的調査でも、当時の鼻血には有意差があることが認められています。見たこともないような酷い鼻血を出す我が子を見て、危険を感じて避難した母親たちの存在を、否定し、嘲笑するこの国を、私は大変残念に思います。一方、福島県の中通りで暮らす友人からは、息子の学校には紫斑病の子が多く、入院してしまった子もいる、という話も聞きました。2 0 2 2年には小児甲状腺がんを患った子どもたちが原告となった裁判も起きています。政府に選ばれた学者たちが、事故との因果関係を否定したとしても、現実に、自然発生では非常に稀な小児甲状腺がんに罹患している子どもたちが、福島県内だけで3 0 0人を超えていることは、動かしようのない事実です。

 

9 避難住宅の打ち切りと追い出し
2 0 1 5年6月、国と福島県は、区域外避難者への避難住宅提供の打ち切りを発表しました。しかし同じころ、いわき市内の市民測定所『たらちね』では、市内の家庭用掃除機のダストを測定しており、そのセシウム1 3 4と1 3 7の合計の数値が、2 0 1 5年でも数千~ 1万Bq/kgを越えている、という測定結果を公表していました。そんな場所に、自分や家族が暮らさねばならないなど、耐えられないと思いましたので、私は復興庁や環境省などと交渉を行い、室内にさえもまだ酷い汚染が日常的に侵入している状況なのだから、避難住宅の打ち切りは行わないで欲しいと訴えました。しかし政府側は、『(事故当時に比べ)十分に線量が下がったから(打ち切りは行う)』と繰り返すのです。『それは事故直後が酷すぎただけで、事故前に比べれば、今でも酷い汚染状況であることは変わらない』、と言ったところ、『事故前のデータは(記録が)無いので比較できません』と、驚くべき返事が返ってきました。もちろん事故前のデータが無いわけはありません。原発事故が起こるまで、私たちの避難元には、福島県原子力広報協会が隔月で発行する『アトムふくしま』という冊子が回覧されていました。そこには、原発周辺などの陸土や農産物、海産物などの放射能測定値も定期的に掲載されており、例えば陸土のセシウム1 3 7であれば、2 0 Bq/kg前後、という数値が示されていました。それと比較すれば、掃除機の中にある塵が、少なくとも事故前の数百倍の数値であることがわかります。にもかかわらず、事故前の数値を無視し、事故直後より大きく下がったのだから、もはや問題ないであろう、という政府側の言い分は、根拠もなく全く承服できるものではありませんでした。いくら訴えても国が聞こうとしないのなら、と、国連や、ローマ教皇にも直接訴えました。私たちは2 0 1 8年春には国連人権理事会で原発事故避難者としてスピーチを行い、サイドイベントも行いました。また同年秋、ローマ教皇にも手紙を送り、苦しみを伝えました。更に翌年ローマ教皇が来日した際には、長男がローマ教皇の前でスピーチを行いました。しかしこの国は、国連の勧告にも正面から向き合わず、ローマ教皇の説教も聞き流してしまいました。その上、2 0 2 2年6月の最高裁判決では、国にはこの事故に対して責任はないという、無責任極まりない判決が出されました。正義は、私たちの人権は、一体どこにあるのでしょう。
 

10 放射線による健康影響
安全な被曝などありません。放射線の人体への影響は、確率的なものです。少しの被曝なら大丈夫なのではなく、低い確率ではあっても、確実に被害は起きている。でも、そのような被害が起こりうることを、政府は完全に無視してきました。殆どの人は、1 2年前の原発事故によって、今も東日本の広い範囲が、10 0 Bq/kg以上の汚染土壌となってしまっていることを知りません。事故前であれば、黄色いドラム缶に入れて、厳重に管理しなければならないレベルの汚染が、今も東北と関東に広がっているのに、その危険をきちんと伝えず、被曝させ放題。こんな無責任極まりないこの国で、原発を動かしていいのでしょうか。今、私たちは、低線量被曝によって病気を発症しても、原因は不明のまま。おそらくは生活習慣のせいと片付けられます。そんな『運の悪い人』が、静かにじわじわと増えている。セシウム1 3 7の半減期は3 0年。今ここにいる全ての人が亡くなったあとも、福島原発からばらまかれた放射能は、静かに生命を蝕み続けるのです。


11 最後に
『原発事故の避難者は、十分な賠償金をもらって、新しい家に住んで贅沢な暮らしをしている』というような、事実とは全く異なる『風評』によって、私たちは、いじめや差別に遭いました。息子は当時受けた過酷ないじめによって、今も心を病んでいます。仮に多額の賠償金がもらえていたとしても、それで奪われた人生を取り戻せるものでも無いのに、ただひとこと、『辛い』と言葉をもらす自由さえも奪われるのです。原発によって歪められたお金は、人に幸せをもたらすことはありません。私たち被害者は、その属性を知られるだけで、差別に晒されます。被害を訴えれば、復興を妨げる風評加害者だと攻撃されます。ましてや顔と名前を出して訴訟など起こせば、隣人や親せ
き、時には家族からも攻撃され、それまでの生活を失います。それでも、被害者が声を上げるのは、あまりの不正義と理不尽があるから。そして同じ苦しみを持つ人がたくさんいるからです。黒い雨を浴びた方々や、小児甲状腺がんに罹患した子どもたちが裁判を起こしたのも、同じ苦しみにある人たちがいたから。私たち被害者の声は、未来への警告です。この陳述の冒頭に述べた共同墓地には、まだ墓石の無い草地があります。そこが、いつか私が眠る場所です。死んだら福島に帰れる。そう決めた日から、少しだけ心が楽になりました。帰りたい、という言葉をずっと封印してきた1 2年。生まれた場所ではないけれど、夫と結婚し、初めて家を建て、子どもたちが生まれ、たくさんの幸せを育んできた福島が、今でも私のふるさとです。願わくは、私たちのような思いをする人が、二度と出ないように。これ以上、原発によって国土が汚染され、人々の暮らしが歪められないように。
祈りを込めて、私は、すべての原発の稼働に反対します。


以上

東京都による避難者追出し訴訟について

 

【訴訟の概要】 都内の避難住宅を引き続き提供するよう、国や福島県、東京都に対し署名を提出し、話し合いによる解決を求めてきた10世帯以上の避難世帯の中から、東京都がたったひとりの避難者を被告として、2022年3月に東京地裁に提訴した訴訟。

東京都は被告である福島県いわき市からの避難者に対し、居住していた避難住宅の明け渡しと、提供期限以降の家賃相当額等を損害金として請求した。 これは避難元が今も放射線管理区域相当の放射能汚染であるために、避難の継続を求めている避難者に対し、居住している避難住宅から無理矢理追い出そうという非常に理不尽な裁判である。 更に、該当の避難住宅は国家公務員宿舎であり、東京都には実質損害は発生していないため、避難者に対し損害金を請求する権利は本来は東京都に無い。むしろ東京都が勝訴し、原発事故の被害者である避難者が損害金の支払いを命じられた場合、その損害金は都を経由して原発事故の加害者である国の懐に入ることとなる。すなわち都は弁護士法違反の債権取り立て代行業務を担うこととなるのである。その意味でも非常に不当な裁判と言える。

 

【被告のプロフィール】 鴨下祐也(博士(工学)):東日本大震災の翌朝に原発事故を懸念し、福島県いわき市の自宅から妻子を連れ東京へ避難。4月の業務再開でやむなく福島へ帰還後は、妻子の避難を仕送りで支え続けた。しかし情報が歪められた地域の中で心身を病み、2年後に教職を辞して東京へ避難。国と東電を訴える集団訴訟『福島原発被害東京訴訟』を提訴し、原告団長を務める傍ら、ひなん生活をまもる会代表として、避難住宅打ち切り反対運動の先頭に立ってきた。現在はステージ3の癌とも闘い続けている。

 

【被告の意見陳述】 控訴審第一回口頭弁論期日 (東京高裁101号法廷) 本日は意見陳述の貴重な機会を与えていただき、御礼申し上げます。 先週、隣の103号法廷で、私が原告団長を務める福島原発被害東京訴訟の3次、4次提訴の原告本人尋問が行われましたが、尋問予定の5名中、3名が出廷できないという異例の事態となりました。欠席の理由は、入院、感染症、そして急性心筋梗塞です。尋問を受けた方も、避難してから2度がんを患い、体調が思わしくないと話されていました。

私自身、ステージ3の大腸癌で、昨年は10回の入院を経験し、うち2回は緊急入院。更に今は心臓にも異常が見つかり検査中です。決して高齢者が多い訴訟でないにもかかわらず、特に癌と心臓病が多いと感じます。原告に限らず避難元のいわき市や福島県全体でも、急性心筋梗塞死の割合が全国平均の2倍を超えており、今では自治体が注意を呼びかけています。

私は博士の学位を持つ科学者で、放射性物質の扱いについても若干の知識を持つ者です。そのため原発事故の前後で、放射線被曝に対する国の対応や数値の扱いが、全く杜撰になってしまったことに衝撃を受けました。国民に危険を伝えず、むしろ隠蔽しようとする国や東電の態度にも憤りを覚えましたし、学位を持ちながら科学者としての矜持を棄て、言葉巧みに歪んだ安全論を広める者らが猛威を奮うことも許せませんでした。国は、風評加害者という言葉まで作って、真実に蓋をしようとして いますが、私は科学を学ばせてもらった者の使命として、せめて科学的に明らかになっている事実はきちんと伝え、避けられる危険は避けるよう、促すべきだと思っています。

国は2017年に避難住宅の提供を打ち切りました。それでも私が避難住宅から退去できなかった理由は、避難元の放射能汚染にあります。昨年1月、いわき市の自宅の土壌測定をしましたが、依然として 40,000Bq/m2の放射線管理区域の基準を越えていました。平時であれば子どもが立ち入るはずもなく、放射線業務従事者であっても飲食が禁止される放射能汚染の中で、私は妻子と共に日常生活を再開するなど考えられません。 この裁判を起こす直前、東京都の担当者は、 「鴨下さんは、裁判を起こして原告団長をやってるくらいですから、裁判を起こされても、それが原因で病気になるようなことはないでしょう」 という言い方をしていました。でも私はこの裁判を起こされて以降、心身を病み、自殺率が高いことで知られる双極性障害も発症し、正に死ぬほどの苦しみを味わいました。巻き込んでしまった妻もPTSDを発症し、今も服薬治療中です。 何故、私は東京都と争わなければならないのでしょうか? 私たちが住んでいたのは、国が管理する国家公務員宿舎です。都の担当者は、東京都が国から損害金を請求されたために、本来起こしたくない裁判を起こすことになった、と話していました。この裁判に至る経緯の中で、居住者である私達を無視して、国と東京都の間で一体どのような取り決めが為されたのか、是非明らかにしていただきたいのです。 主治医によれば、私の癌は10年以上前に始まったものだそうです。手術を終え、半年間の過酷な抗がん剤治療を耐えてなお、今も私を脅かしているこの病が、福島原発事故に起因するものではない、ということを、一体誰が証明できるでしょうか。私は、自分や家族がこんな気持ちにならないためにも、被曝を回避したかったのです。 私自身は、避難指示がなかったばかりに事故後の2年間、避難が叶わず、妻子を逃がすのがやっとでした。だからこそ、自宅が安全になるまでは避難を続けたかったし、まだ汚染の酷い場所へ人々を戻らせるべく、国や東京都が避難者を追い込んでいることが耐えられませんでした。 例え低線量であっても放射線被曝は有害です。この14年間で、それを裏付ける論文は更に増えています。どうか被曝を回避する手段を、これ以上被害者から奪わないでください。そして、家を追い出したり、訴訟を起こすことで、これ以上被害者に二重三重の苦しみを与えないでください。 この裁判では、私だけが訴えられましたが、今も怯えて暮らしている避難者たちは皆、この裁判を固唾を飲んで見守っています。原発事故さえなければ必要のなかった避難、味わうことのなかった恐怖は、今日も続いています。どうか、最新の知見を以て放射線被曝の害を理解し、私たちに これ以上の被曝や恐怖を与えないようにしてください。ありがとうございました。 ※この意見陳述が行われた、控訴審第一回口頭弁論期日から3ヶ月も経たない2025年5月8日、東京高裁第八民事部(三角比呂裁判長)は、被告に控訴棄却判決を言い渡した。            

原発事故を通して、政府が戦略的かつ経済的な計算から、国民の安全や心情を後回しにしてきた現実が見えてきました。こうした対応は、多くの方々に深い苦しみをもたらしています。

 

そして、人間は恐れや嫉妬などの心理的な影響から、いじめや差別の行動をしてしまうことがありますが、それは個人の意識の深い問題であり、改めて心に刻みたいと思います。

鴨下さんご家族の体験は決して特別なものではなく、私たち全員が直面する可能性のある現実を示しています。

 

この経験を通して、私たちは互いに理解し合い、互いに寄り添い支え合う勇気、人類愛を思い起こす事の大切さを共に考えていきたいと願っています。

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