
深まった今
時間はケチるものでしょうか?
追いかけるものでもない。
使うものではない。
時間は使うもの?
人生は使うもの?
人生を金にしない。
のんびりと
あるがままの今が。
今を感じ、
感じていることを、置き去りにせず、
そのまま、
あるがままを丁寧に感じ、
そのまま過ぎる時間を、
のんびり生きる。
弛緩。
時間が見える線でなく、
深い感性になる。
C'est tout !!!
それだけ
2026年9月18日
宇宙、自然と私たち
私たちは宇宙の一部であり、宇宙に包まれて生きています。
それなのに私たちは、絶えず宇宙を理解しようとし、測ろうとし、テクノロジーによって変えようとしています。
ロボット、人工知能、宇宙探査……。
私たちの発明する力には、限界がないようにも見えます。
けれど同時に、私たち自身は自然を必要としています。
自然の中にいると、私たちは何かに安らぎ、癒され、そして自分自身へと戻っていくような感覚を得ます。
これは、ひとつの逆説ではないでしょうか。
私たちは、ますます強力なテクノロジーを生み出しています。
ときには冷たく、生きているものから遠く離れたものさえ。
それでも私たち自身の身体、呼吸、心臓、感情は、今なお深く、自然や宇宙のリズムと結びついています。
もしかすると私たちは、
自分たちが生み出すものと、
自分たち自身がその一部であるものとの間で、
そのバランスを探そうとしているのでしょうか?
2026年9月18日
ゆうこの独り言
良いもの、美味しいもの、素敵なもの、健康に良いもの。
いかに良いものらしいものを作って、売上を上げるか。
いかにコストカットするか。
良いものらしい、
美味しそうなもの、
健康に良さそうなもの、
美しそうなもの。
それらしきものを効果的に売れるか?
言ってみれば、まがいものが横行している世の中。
本当に良いものを。
手間暇かけて、
素材を大切に、
作る人自身が納得できる、
使う人の身体や心に本当に良いもの。
今の社会ではこうした本物が、価値のあるものとは考えられていない。
作り手も、受け取る側も、心から幸せな時間。
社会の問題と、そこからの私たち自身の視界
国の政策に反対する地方の意思を、国は経済的な力によって従わせてはいないか。 そして、それを私たちは民主主義と呼んでよいのだろうか。
今回の沖縄県知事選を見ていて、私は原発誘致をめぐる地域の選択と、同じような構造を感じてしまった。
国にとって必要とされるものを地域が受け入れる。その代わりに、政府から財政的な支援や経済的な恩恵が与えられる。しかし、その支援の有無が地域の経済や暮らしに大きく影響する。
この構造は、原発誘致を引き受けるか否かと同じ構造ではないだろうか。そこに大いに疑問を持った。
民主主義において、政府の援助いかんによって、人々が真摯な発言をできない状況が起こっていること自体が問題ではないか。
反対意見をどう汲み取っていくのか。その根本が考えられないままに、権力が押さえつけ、反対する側の信条も頑固に固まってしまうように見える。 どちらも、果てしなく民主主義から離れてはいないか。
日本がアメリカに依存していることが、根本的な問題として沖縄の現状を生んでいるのではないか。そこを変えるには、アメリカ側の日本との関係なしには考えられない。
世界中が経済優先で自然を貪欲に搾取し、自然界の再生力によって保たれてきたバランスを壊し、温暖化を止めることもできないまま、人類は走り続けている。
そのなかでトップを走るアメリカの方向性も、私たちは考えることができないか。 目の前の経済、目の前の安全保障、目の前の問題だけにとらわれず、もっと大きな視野から人類の未来を考えることができないだろうか。
オール沖縄は、この数年間、この日本の空気に抗って戦ってきた。 彼らの血に染まった心を見て見ぬふりするのは、もうやめたい。 岩盤を打ち破るには、日本全体の空気が変わらなければならない。
絶望的に感じれば、何も動かずに甘んじる。 この日本全体の感覚に、今回の選挙も陥ったような感じがする。
苦しみをかみしめてきた年齢層ではない若者たちにとっては、目の前の生活や経済を優先する選択になったとも見られる。
政治家は、アメリカとの関係を曖昧に、とにかく敵対しないように、従順であるしかないのでしょう。そして国民は、あなた任せ。
貧富の差、経済の低迷、不登校、少子化など、さまざまな問題の底辺に、諦めの、今を維持する、ことなかれ主義から脱出できない日本があるのではないか。
国民がさまざまな意見を持つことすら尊重できない国に、民主主義という言葉はないし、真の発展はない。
逆に、今回の沖縄県民の妥協を、政府が、国民がどう受け取るかに、「期待」という名をつけてみよう。
2026年9月16日
森の火災、氷河の崩落、人類の危機を直視できるか?
いかに人と協力して、人類の危機を乗り越えられるか
私はこれまで、OGM反対運動に加わったり、核実験反対運動に加わったり、チベットの独立運動に加わったり、原発反対運動に加わったりしてきました。私は、それぞれの運動に共感していました。
けれども、運動に参加する中で、次第にあることを感じるようになりました。
反対運動をしている人たちの中には、本当に世の中のことを考えているというよりも、自分自身の不幸や怒りを、敵をつくることによって吐き出しているように見える人もいる。
森を再生することや、エコロジーの運動についても、私は同じようなことを感じることがあります。
なぜ、人間は「自分たちが正しい」ということに、これほどこだわるのでしょうか。
考えてみると、これは政治や社会運動だけの問題ではないのかもしれません。
私は若い頃、ピアノという楽器が世界で一番素晴らしい楽器だと思っていました。でも、ヴァイオリニストならヴァイオリンが最高の楽器だと思うでしょうし、画家なら自分の表現する世界が最高だと思うかもしれません。
宗教についても同じです。キリスト教にはカトリックやプロテスタントがあり、仏教にもさまざまな宗派があります。チベット仏教にも四つの流派があります。
それぞれが、自分たちのものこそ最高だと思う。
そこには、何か共通する人間の性質があるように思います。
それは、「自分を正当化したい」という力なのではないでしょうか。
自分の体験、自分の考え、自分の信じているものを正しいと思いたい。
そして、相手が自分と違う意見を持っていると、「自分が間違っているのではないか」という恐れが生まれる。そこには、「自分を認めてもらいたい」という承認欲求も関係しているのではないかと思います。
だからこそ、相手を説得しようとする。
自分の考えを相手に認めさせようとする。
でも、もしかすると、その力そのものが問題なのではないかと思うようになりました。
人間は、一人ひとりが自分の体験やインスピレーションから、それぞれの知見を得ています。
一人なら、一人分の知見があります。
でも、二人がそれぞれ自由に生き、それぞれの体験やインスピレーションを持ったまま出会えば、本来は二人分の知見になるはずです。
ところが、一人が「自分の体験、自分のインスピレーションこそ絶対だ」と思い、相手を自分の考えに従属させようとしたら、どうなるでしょう。
二倍になるどころか、半分になってしまうかもしれません。
相手が持っていたはずの知見や、まだ生まれていないかもしれない新しい発想まで、失われてしまうからです。
では、なぜ人間は、二人の違いをそのまま豊かさとして受け取ることが難しいのでしょうか。
私は、その根本には教育の問題もあるのではないかと考えています。
学校教育では、一つの枠、一つの方向性に人々を導いてしまうことがあります。正しい答えがあり、その答えに近づくことが評価される。
そういう環境の中で育つと、自分自身の体験から何かを発見するよりも、「正しいもの」を与えられ、それに自分を合わせることに慣れてしまうのではないでしょうか。
しかし、そこから脱皮することはできるはずです。
自分自身を掘り下げて、自分は何を感じているのか、何をしたいのか、何に心が動くのかを見つめる。
そして、自分自身の体験やインスピレーションを、自分にとっての一つの知見として大切にする。
同時に、相手にも、その人自身の体験とインスピレーションがあることを認める。
そうすれば、相手と違うことは、必ずしも自分が間違っているということではなくなります。
むしろ、「自分には見えていないものを、この人は見ているのかもしれない」と考えられる。
私は、問題というものも、そういうふうに受け取れるのではないかと思っています。
問題を、自分を苦しめるものとしてではなく、解決するための課題として宇宙から受け取る。
そう考えるなら、問題に対して敵をつくる必要はありません。
人類が今直面している危機も、誰かを責めるためのものではなく、私たちが一緒に解決しなければならない課題として受け取ることができるのではないでしょうか。
そのためには、それぞれの分野で深く考え、体験し、知見を積み重ねてきた人たちが、それぞれの考えを絶対化するのではなく、互いに自由なまま協力することが必要なのではないか。
私は、優秀な科学者をはじめ、さまざまな分野で深く仕事をしてきた人たちが、すでにそこまで到達しているのではないかと期待しています。
科学者には科学者にしか見えないものがあり、芸術家には芸術家にしか見えないものがある。哲学者にも、教育者にも、経済学者にも、それぞれにしか見えないものがある。
それらを一つの考えに統一するのではなく、それぞれが自由なまま持ち寄る。
一人の知見を二人にするのではなく、違う知見が出会うことによって、これまで誰も持っていなかった知見を生み出す。
そこに、人類が今の危機を乗り越えるための大きな可能性があるのではないでしょうか。
だから私が今考えたいテーマは、
「いかに人と協力して、人類の危機を乗り越えられるか?」
ということです。
2026年9月1日